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第7回定期演奏会では、巨匠ベートーヴェンによる3つのオーケストラ作品を取り上げる。ここでは彼の生涯を概観した上で、何が彼を巨匠たらしめたのかについて、オーケストラ史的観点から述べたい。ベートーヴェンは1770年にボン(現在のドイツ西部)で生まれた。当時のボンは、ハプスブルク朝の政治的重要都市として、充実した音楽文化を繁栄させていた。宮廷音楽家たる祖父と父を持つ彼は、幼少期から音楽の素養を深め、バッ……
私の愛するチェコ民族は決して滅びることはない。地獄の恐怖が振りかかろうと、必ずや気高い勝利を収めるであろう。6つの交響詩から成る本作は、チェコ民族にとって最も大切で意義のある作品として愛され、尊敬されている。チェコの激動の歴史、美しい自然の情景、人々の強い想い、そして民族の幸福と繁栄への願いが内包された、約80分間の物語の旋律は人々の心を掴んで離さない。チェコの歴史は被支配に対する自由への闘争の歴……
本演奏会で取り上げるスメタナとドヴォルザークは、ともにチェコを代表する作曲家である。チェコは絶えず政治的・宗教的動乱に巻き込まれてきた地域であり、その音楽は長い分裂の歴史による動態的な文化の中で発展してきた。チェコ音楽の基層部分をなす民俗音楽は、西側のボヘミア地方では西欧文化の影響を受け器楽的、東側のモラヴィア地方では東方諸邦の音楽を受け継ぎ声楽的であるとされる。両地域の差異は、政治的混乱の中で、……
《死と変容》は、シュトラウス自身が構想したプロットに基づき1888年から1889年にかけて作曲され、シュトラウスの友人でヴァイオリニストのアレクサンダー・リッターによる詩を付して発表された。シュトラウスは弱冠25歳で「死」を扱う本作を作曲したこととなる。それにも関わらず、本作は病人の生き様と死に様、そして死後の魂の行方を巧みに表現している。シュトラウスは1864年にミュンヘンで生まれた。当代最高峰……
1600年前後にイタリアで誕生したオペラ(歌劇)は、17世紀半ばからヨーロッパ全体へ広がり、最も権威ある音楽ジャンルとして君臨する。この覇権はモーツァルトの生きた18世紀にまで続き、モーツァルトも熱心にこのジャンルに取り組んだ。当時よく用いられたオペラの一形態として、「オペラ・ブッファ」が挙げられる。オペラ・ブッファは、ギリシャ悲劇の復興に端を発した初期のオペラ(オペラ・セリア)の反動として、18……
私は三重の意味で故郷がない人間だ。グスタフ・マーラーは1860年、オーストリア帝国のボヘミア地方に生まれた。両親はユダヤ人であり、その出自は彼の人生に大きく影響している。1867年に成立したオーストリア=ハンガリー二重帝国においてユダヤ人には完全な市民権が認められたが、反ユダヤ主義は未だ根強く、指揮者として活躍した若き日のマーラーも差別に苦しめられていった。36歳でウィーン宮廷歌劇場監督に就任する……
《交響的舞曲》は、1940年に完成したラフマニノフ最晩年の作品である。当時の彼は、精力的な演奏活動を通して20世紀最高のピアニストの一人と称えられるようになっていた。一つの演奏会で指揮者・ピアニスト・作曲家の三役をこなすこともあったラフマニノフであったが、本作は最後のオリジナル作品(その後は編曲のみ)であることからも、彼の作曲家としての人生の集大成と言える作品である。ラフマニノフの作品は広く大衆に……
《ピアノ協奏曲第3番》は1909年夏、ラフマニノフが避暑地・作曲地として愛した、モスクワ近郊のイワノフカの別荘で作曲された。当代最高のピアニストでもあったラフマニノフが、初の訪米演奏会に向けてそのヴィルトゥオーゾの粋を集めて作曲した本作は、世界で最も難しいピアノ協奏曲の一つとして名高い。本作の献呈を受けたヨゼフ・ホフマンが演奏できなかったことや、ウラディーミル・ホロヴィッツやヴァン・クライバーンと……
近代社会の到来と共に芸術のあり方が四散していった20世紀初頭、作曲家として円熟期を迎えていたセルゲイ・ラフマニノフは、交響詩《死の島》(1909)を発表した。ラフマニノフは当時絶大な人気を博していた同名の絵画に薫染され、その死生観の彼方に本作品を創造した。一枚の静止画から管弦楽作品へ、静と動、光と音を紡いだ標題を紐解いていく。本作品の題材となったのは、スイス人画家アルノルト・ベックリン(1827–……
幻想交響曲op.14はフランスの作曲家ベルリオーズ(1803–1869)が1830年に作曲した交響曲であり、彼の最大の代表作である。当時としては楽器編成、楽曲構成ともに大規模な管弦楽作品ではあったものの、作曲に要した期間はわずか3か月ほどであった。自筆譜の表紙には「ある音楽家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲」と記載されている。ここでの「ある音楽家」とは、他ならぬベルリオーズ本人のことである。作曲……
《アルルの女》第2組曲は、フランスの作曲家ビゼーの劇付随音楽《アルルの女》を元に、彼の親友でパリ国立音楽院作曲学教授のギローによって編曲された組曲である。ビゼーは、1838年、パリにて、声楽教師の父とピアニストの母の間に生まれる。幼い頃から音楽に親しみ、《真珠採り》(1863)や《美しきパースの娘》(1866)で劇音楽作曲家としての地位を確立すると、1875年には代表作の一つ、オペラ《カルメン》が……
エマニュエル・シャブリエ(1841–1894)は、フランスが近代国民国家へと変わりゆく激動の時代に生を享けた。6歳で音楽をはじめると、とりわけピアノ演奏において卓越した才能を示したという。しかし彼は専業の音楽家としての道を選ばず、法学を学び内務省に就職した。一連の政治革命の中で、多くの音楽家が宮廷や教会での職を失っていたためである。音楽への想いを諦められなかったシャブリエは、フォーレやダンディらと……
チェコ共和国は、ヨーロッパの東部に位置し、東西の民族勢力の集合点に位置していた。その地理的状況により、異文化との多様な交流と接触を繰り返した結果、民族固有の音楽に対する感覚が研ぎ澄まされ、音楽文化を絶えず発展させてきた。19世紀末には、絶対音楽に代表作を持つドヴォルザークと標題音楽に代表作を持つスメタナの二人が登場し、今日にチェコ音楽を伝えることとなる。ドヴォルザークは1841年、ボヘミアの農村に……
アーロン・コープランドは、1900年1月14日にニューヨークのブルックリンでユダヤ系移民の両親のもとに生まれました。作曲家を志した彼は、ナディア・ブーランジェの指導を受け、以後3年に渡ってパリで研鑽を積みます。ブーランジェは、後にバーンスタインや、ミニマル・ミュージックの大家で知られるグラスなども指導をしており、20世紀のアメリカ音楽の源流の一つとなる重要な人物です。パリからアメリカに戻った彼は、……
ジョージ・ガーシュウィンは、1898年9月26日にニューヨークのブルックリンでロシア系移民の両親のもとに生まれました。両親が兄アイラに買い与えたピアノを譲り受けた彼は練習を重ね、1917年に高校を卒業したのちは、ブロードウェイの傍に事務所を構える音楽出版社で、試演奏者として働き始めました。間もなく創作活動も開始しミュージカルやショーに向けた音楽を作り始めたことも、その環境を思えば当然のことでしょう……
恩師シューマンの勧めにより交響曲第1番の創作に着手したブラームスは、その完成に実に二十年余りを費やした。シューマンは評論『新しい道』(1853)の中でも、ブラームスを讃えつつ、「合唱・オーケストラ曲といった規模の大きな作品においても力を発揮することを期待したい」と記している。他方、決して遅筆ではないブラームスが、心待ちにされた交響曲第1番の完成にこれほどの時間をかけたのは、やはりベートーヴェンの存……
本作品は概して、ベートーヴェンのウィーンにおける作曲技法修練の集大成と、独自路線開拓の記念碑的作品と言える。初演は1800年4月、当時29歳のベートーヴェン自身の指揮によって執り行われた。彼は本作品を、ハイドンやモーツァルトの作品、自身の《七重奏曲》などを含むプログラムのトリに配して、満を持す形で世に放ったのである。ドイツのボンで生まれた田舎者の青年が、その後作曲家として大成するウィーンに落ち着い……
われわれの一生は、その厳粛な第一音が死により奏される未知の歌への一連の前奏曲でなくてなんであろうか。交響詩《前奏曲》は、リストの管弦楽作品のうち、最も有名かつ重要な作品の一つである。本作品は、冒頭に掲げた文章に始まる標題を持つ。標題とは、文学や絵画といった音楽外の観念や表象であり、これに従った自由な形式の音楽作品を指す標題音楽や、その代表的ジャンルとしての交響詩という用語は、リストによって初めて用……