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《祝典序曲》は、ソヴィエト共産党中央委員会からの委嘱作品として作曲され、1954年11月、第37回ロシア革命記念日の祝典で初演された。本作は、ソ連の政治的転換期の中で発表され、共産主義の祝祭的な雰囲気を纏いつつも、ショスタコーヴィチの胸中に秘められた機微を示唆するものとなっている。本作が発表される前年の1953年3月5日、ソ連の最高指導者であったスターリンはその生涯を終えた。スターリンはロシア革命……
エドワード・エルガーの交響曲第一番は、1908年に完成した。重要なことは、この時点でエルガーがイギリスを代表する作曲家であったということだ。1899年の「エニグマ変奏曲」から1919年の「チェロ協奏曲」までのこの時期は、ベートーヴェンよろしく「傑作の森」とも呼ばれるほどに、エルガーにとって充実していた。その作品群の中でも、交響曲第一番がイギリスにとって、そしてエルガーにとっても象徴的なものだったこ……
この「謎の」作品は、親しい人との戯れに端を発し、やがて彼の運命を変えることになる。エルガーの妻、キャロライン・アリス・ロバーツは、彼の人生に大きな影響を与えた人物の一人である。名家の生まれで8歳年上のアリスは、聡明でロマンチックな、芯のある女性だった。無名の音楽家との結婚に強く反対した家族から勘当されるも、揺るぎない愛情で夫を献身的に支えた。2人の生活を綴った日記の中で、アリスはこう記している。「……
エドワード・エルガーは1857年、イングランド中部にて生を享けた。当世(ヴィクトリア期)のイギリスは、政治・社会双方の面において世界を先導しており、1851年には世界最初の万博博覧会を催すなど栄華を極めていた。他方、管弦楽の分野においては、盛期・後期ロマン派音楽を指導するような作曲家はほぼおらず、民俗音楽に立脚した作品が主流であった。エルガーは、楽器商の父により幼い頃からヴァイオリンやピアノの教育……
チャイコフスキーの旋律美が多くの人々を魅了し続けてきたことは言うまでもない。ある団員が云うには、チャイコフスキーは“音階を音楽に変える天才”だそうだ。確かに彼が生み出す旋律は、音階の要素を基調に多彩な装飾が施されており、息を呑むほどに美しく、哀しく、そして慈愛に満ちている。一方で、赤裸々な感情移入を厭わない作風は当時のロシア人作曲家の中では異色であり、厳しい批評にさらされていたのもまた事実である。……
シベリウスはフィンランドを代表する作曲家であり、フィンランドの過酷な自然や幻想的な民族伝承、住民の厳しく孤独な心を、有機的な構成の中にあってなお感じさせる作風が特徴である。また、ロシアの支配にあえぐフィンランドにおいて、フィンランドの民族叙事詩に基づく作曲等を通じ、ナショナル・アイデンティティの探究に寄与した人物としても名高い。1900年のヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団パリ万博公演での《フィ……
ファリャは、スペインを代表する作曲家の1人である。バレエ音楽『三角帽子』は、稀代のバレエ興行師ディアギレフがP.アラルコンによる短編小説『三角帽子』をもとに手がけたバレエ作品のために作曲された。1917年の初演当初は第一次世界大戦中ということもあり、小規模のパントマイムとして上演された。その後大編成オーケストラ用に改編され、1919年にバレエ音楽として完成に至った。バレエ音楽『三角帽子』は2つの組……
1812年に完成した《交響曲第7番》は、双生児とされる《交響曲第8番》(1812)と同時に非公開で演奏されたのち、1813年に公開で初演された。初演は大成功をおさめ、特に第2楽章は単体でアンコールとして演奏されている。ベートーヴェン自身も本作を気に入っており、ロンドンの興行師ザロモンに向けた手紙の中で、「私のもっともすぐれた作品の一つ」と評した。ベートーヴェンの交響曲は、《交響曲第1番》(1800……
ベートーヴェンは微笑んだか?交響曲第8番と向き合う時、我々は一見したところ自明とも思われるこの問いを心のどこかに抱くことになる。たしかにこの曲はベートヴェンの九つの交響曲の中でも比類のない明るさと快活さに溢れている。しかしその一方で、交響曲第8番の底抜けな――「笑う交響曲」とも呼ばれるほどの――明るさを感じようとすればするほど、ぞっとするような皮肉が日陰から顔を覗かせることも見過ごしてはいけない。……
『コリオラン』序曲は1807年に作曲された演奏会用序曲である。本作品は、友人の劇作家ハインリヒ・ヨーゼフ・フォン・コリン(1771-1821)の舞台劇《コリオラン》を題材としており、同氏に献呈されている。舞台劇《コリオラン》が描いたのは、ローマの英雄コリオラヌスの悲劇である。数々の武勲で名声を高めていたコリオラヌスは、身分闘争の最中、護民官の陰謀により失脚してしまう。彼は復讐に燃え、かつて敵国だっ……
第7回定期演奏会では、巨匠ベートーヴェンによる3つのオーケストラ作品を取り上げる。ここでは彼の生涯を概観した上で、何が彼を巨匠たらしめたのかについて、オーケストラ史的観点から述べたい。ベートーヴェンは1770年にボン(現在のドイツ西部)で生まれた。当時のボンは、ハプスブルク朝の政治的重要都市として、充実した音楽文化を繁栄させていた。宮廷音楽家たる祖父と父を持つ彼は、幼少期から音楽の素養を深め、バッ……
私の愛するチェコ民族は決して滅びることはない。地獄の恐怖が振りかかろうと、必ずや気高い勝利を収めるであろう。6つの交響詩から成る本作は、チェコ民族にとって最も大切で意義のある作品として愛され、尊敬されている。チェコの激動の歴史、美しい自然の情景、人々の強い想い、そして民族の幸福と繁栄への願いが内包された、約80分間の物語の旋律は人々の心を掴んで離さない。チェコの歴史は被支配に対する自由への闘争の歴……
本演奏会で取り上げるスメタナとドヴォルザークは、ともにチェコを代表する作曲家である。チェコは絶えず政治的・宗教的動乱に巻き込まれてきた地域であり、その音楽は長い分裂の歴史による動態的な文化の中で発展してきた。チェコ音楽の基層部分をなす民俗音楽は、西側のボヘミア地方では西欧文化の影響を受け器楽的、東側のモラヴィア地方では東方諸邦の音楽を受け継ぎ声楽的であるとされる。両地域の差異は、政治的混乱の中で、……
《死と変容》は、シュトラウス自身が構想したプロットに基づき1888年から1889年にかけて作曲され、シュトラウスの友人でヴァイオリニストのアレクサンダー・リッターによる詩を付して発表された。シュトラウスは弱冠25歳で「死」を扱う本作を作曲したこととなる。それにも関わらず、本作は病人の生き様と死に様、そして死後の魂の行方を巧みに表現している。シュトラウスは1864年にミュンヘンで生まれた。当代最高峰……
1600年前後にイタリアで誕生したオペラ(歌劇)は、17世紀半ばからヨーロッパ全体へ広がり、最も権威ある音楽ジャンルとして君臨する。この覇権はモーツァルトの生きた18世紀にまで続き、モーツァルトも熱心にこのジャンルに取り組んだ。当時よく用いられたオペラの一形態として、「オペラ・ブッファ」が挙げられる。オペラ・ブッファは、ギリシャ悲劇の復興に端を発した初期のオペラ(オペラ・セリア)の反動として、18……
私は三重の意味で故郷がない人間だ。グスタフ・マーラーは1860年、オーストリア帝国のボヘミア地方に生まれた。両親はユダヤ人であり、その出自は彼の人生に大きく影響している。1867年に成立したオーストリア=ハンガリー二重帝国においてユダヤ人には完全な市民権が認められたが、反ユダヤ主義は未だ根強く、指揮者として活躍した若き日のマーラーも差別に苦しめられていった。36歳でウィーン宮廷歌劇場監督に就任する……
《交響的舞曲》は、1940年に完成したラフマニノフ最晩年の作品である。当時の彼は、精力的な演奏活動を通して20世紀最高のピアニストの一人と称えられるようになっていた。一つの演奏会で指揮者・ピアニスト・作曲家の三役をこなすこともあったラフマニノフであったが、本作は最後のオリジナル作品(その後は編曲のみ)であることからも、彼の作曲家としての人生の集大成と言える作品である。ラフマニノフの作品は広く大衆に……
《ピアノ協奏曲第3番》は1909年夏、ラフマニノフが避暑地・作曲地として愛した、モスクワ近郊のイワノフカの別荘で作曲された。当代最高のピアニストでもあったラフマニノフが、初の訪米演奏会に向けてそのヴィルトゥオーゾの粋を集めて作曲した本作は、世界で最も難しいピアノ協奏曲の一つとして名高い。本作の献呈を受けたヨゼフ・ホフマンが演奏できなかったことや、ウラディーミル・ホロヴィッツやヴァン・クライバーンと……
近代社会の到来と共に芸術のあり方が四散していった20世紀初頭、作曲家として円熟期を迎えていたセルゲイ・ラフマニノフは、交響詩《死の島》(1909)を発表した。ラフマニノフは当時絶大な人気を博していた同名の絵画に薫染され、その死生観の彼方に本作品を創造した。一枚の静止画から管弦楽作品へ、静と動、光と音を紡いだ標題を紐解いていく。本作品の題材となったのは、スイス人画家アルノルト・ベックリン(1827–……
幻想交響曲op.14はフランスの作曲家ベルリオーズ(1803–1869)が1830年に作曲した交響曲であり、彼の最大の代表作である。当時としては楽器編成、楽曲構成ともに大規模な管弦楽作品ではあったものの、作曲に要した期間はわずか3か月ほどであった。自筆譜の表紙には「ある音楽家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲」と記載されている。ここでの「ある音楽家」とは、他ならぬベルリオーズ本人のことである。作曲……