作曲に至るまで
この「謎の」作品は、親しい人との戯れに端を発し、やがて彼の運命を変えることになる。
エルガーの妻、キャロライン・アリス・ロバーツは、彼の人生に大きな影響を与えた人物の一人である。名家の生まれで8歳年上のアリスは、聡明でロマンチックな、芯のある女性だった。無名の音楽家との結婚に強く反対した家族から勘当されるも、揺るぎない愛情で夫を献身的に支えた。2人の生活を綴った日記の中で、アリスはこう記している。「いかなる女性にとっても天才の世話を焼くというのは、生涯かかっても余りあるものです」。
きっかけは、幸せな夫婦の無邪気なやり取りであった。1898年の10月、ヴァイオリンのレッスンを終え帰宅したエルガーは、ピアノに向かって、思いついた旋律を気ままに弾いていた。その一つがアリスの耳に留まり、アリスは夫に「今のフレーズは何です?」と問いかける。妻を楽しませたくなったエルガーは、「何でもないよ。けど、パウエルならこう弾くかもね…」と、その旋律を主題として、友人一人一人をイメージして即興で変奏していった。そして、それらを管弦楽曲へ膨らませたものが、《管弦楽のための独奏主題による変奏曲》、通称《エニグマ(=謎、謎かけ)変奏曲》として世に出された。
本作には二つの「謎かけ」がある。第一の謎は、「14の変奏が誰をイメージして書かれているか」である。これは、ほとんどの変奏の冒頭にそれぞれのイニシャルやニックネームが付されていることもあり、第13変奏以外の13人については既に解明されてしまった。そして第二の謎は、「全曲を通じて別のさらに大きな主題があるけれども、それは演奏されない」というエルガーの発言の謎である。その隠された主題の正体については、これまでたびたび議論されてきたものの、いずれも仮説の域を出ず、未だに謎に包まれている。
楽曲の展開 ―各変奏のモチーフ―
主題 Andante ト短調、4分の4拍子
孤独にうなだれる芸術家のような、弦楽器の重々しい旋律(A)と、木管楽器・ホルンも加わった優しいフレーズ(B)との2つの楽句からなる(譜例)。
第1変奏 Listesso tempo “C.A.E.” ト短調、4分の4拍子
妻のアリス。主題から休みなしに演奏される、「主題の延長」となっている。
第2変奏 Allegro “H.D.S-P.” ト短調、8分の3拍子
アマチュアピアニストのヒュー・デイビット・ステュアート=パウエル。彼の演奏を描写した、小気味よい変奏である。
第3変奏 Allegretto “R.B.T.” ト長調、8分の3拍子
アマチュア俳優のリチャード・バクスター・タウンゼンド。低音から高音まで様々な声質で自在に歌いこなす。
第4変奏 Allegro di molto “W.M.B.” ト短調、4分の3拍子
田舎の大地主で学者でもあったウィリアム・ミース・ベイカー。精力的で仕事熱心な彼が、力強くその日の計画を読み上げ、慌てて音楽室から出て行く様子を描写する。
第5変奏 Moderato “R.P.A” ハ短調、8分の12拍子
詩人の息子でピアニストのリチャード・ペンローズ・アーノルド。 彼のユーモアに富んだ性格で、真面目な会話もしばしば笑いに中断される。
第6変奏 Andantino “Ysobel” ハ長調、2分の3拍子
ヴィオラの愛弟子、イザベル・フィットン。 この変奏では終始ヴィオラが活躍する。
第7変奏 Presto “Troyte” ハ長調、 1分の1拍子
建築家で終生の親友でもあったアーサー・トロイト・グリフィス。不器用だがピアノ習得に熱心な彼が、エルガーの指導の下、悪戦苦闘する様子が窺える。
第8変奏 Allegretto “W.N.” ト長調、8分の6拍子
18世紀の古い家に住むおっとりした女性、 ウィニフレッド・ノーベリー。クラリネットが優美に彼女をかたどる。
第9変奏 Adagio “Nimrod” 変ホ長調、4分の3拍子
エルガーの親友かつ助言者で、 楽譜出版社で働いていたアウグスト・イェーガー。ある夕暮れ時、彼がエルガーを鼓舞して口ずさんだ、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』の緩徐楽章が、冒頭でさりげなく暗示される。
第10変奏 「間奏曲」 Allegretto “Dorabella” ト長調、4分の3拍子
ウィリアム・ベイカー(第4変奏)の義理の姪であるドーラ・ペニー。 木管楽器の16分音符や弦楽器のトリルは彼女の話し方や笑い声を表現している。
第11変奏 Allegro di molto “G.R.S” ト短調、2分の2拍子
オルガニストのジョージ・ロバートソン・シンクレア。彼の愛犬のダンというブルドッグが散歩中にワイ川に落ち、必死に岸まで這い上がったあと、嬉しそうに吠える様子を描く。《南国にて》の第1主題でもダンの「勝利」が描かれている。
第12変奏 Andante “B.G.N.” ト短調、4分の4拍子
エルガーの親友でよく共演した、 チェリストのベイジル・G・ネヴィンソン。チェロの哀愁ただよう美しい旋律が印象的である。エルガーは後に彼に触発されて《チェロ協奏曲》を書き上げる。
第13変奏 「ロマンツァ」 Moderato “***” ト長調、4分の3拍子
全変奏で唯一、冒頭のイニシャルが記号になっており、誰をモチーフにしたのかは未だに「謎」のままである。メンデルスゾーンの序曲 《静かな海と楽しい航海》のメロディが引用されていることなどから、当時航海中のレディ・メアリー・ライゴンの海路平安を祈ったものとする説が有力である。
第14変奏 「終曲」 Allegro Presto “E.D.U.” ト長調、4分の4拍子
アリスに「エデュ」と呼ばれていた、エルガーの自画像である。第1変奏(アリス)と第9変奏(ニムロッド=イェーガー)が顔を覗かせ、主題で描かれた孤独な作曲家は自信に満ち溢れていき、 14にわたる変奏曲は栄光に包まれながら華やかに幕を閉じる。
終わりに ―遺された謎―
寂しい芸術家が、妻や友人らに囲まれ輝かしい未来へ羽ばたいていく様子は、エルガーの生き様に重なる。彼が周囲の人々への親愛によって書き上げた本作は、実際に、1899年の初演の大成功をもって、彼を一躍時の人へと押し上げた。
本作の「第一の謎」は、エルガーと各変奏の主人公たちとのハイコンテクストな冗談を含み、彼らとの絆を仄めかす。では、未だに解き明かされていない「第二の謎」、すなわち隠された主題の正体は、エルガーと我々聴衆とを結ぶ絆なのではないか。本作に向き合い、その「謎」に魅せられる時、我々は偉大な音楽家の大いなる愛に捉われ、見えないものを求めて天を仰ぐのである。「エニグマ」が「エニグマ」である限り。
(Vc. 阪内 佑利華)
参考文献
- Keller, James, M., “Variations on an original Thema, Enigma, op. 36” New York Philharmonic Saturday Matinee Concert "Notes on the Program", February 1, 2020, New York, David Geffen Hall (2023年10月8日閲覧)
- Steinberg, Michael, n.d., “Elgar: Enigma Variations” San Francisco Symphony Program Notes, San Francisco (2023年10月8日閲覧)