Orchestra Canvas Tokyo Blog

2024/2/9

独創主題による変奏曲『エニグマ』

エドワード・エルガー (1857-1934)

作曲に至るまで

この「謎の」作品は、親しい人との戯れに端を発し、やがて彼の運命を変えることになる。

エルガーの妻、キャロライン・アリス・ロバーツは、彼の人生に大きな影響を与えた人物の一人である。名家の生まれで8歳年上のアリスは、聡明でロマンチックな、芯のある女性だった。無名の音楽家との結婚に強く反対した家族から勘当されるも、揺るぎない愛情で夫を献身的に支えた。2人の生活を綴った日記の中で、アリスはこう記している。「いかなる女性にとっても天才の世話を焼くというのは、生涯かかっても余りあるものです」。

きっかけは、幸せな夫婦の無邪気なやり取りであった。1898年の10月、ヴァイオリンのレッスンを終え帰宅したエルガーは、ピアノに向かって、思いついた旋律を気ままに弾いていた。その一つがアリスの耳に留まり、アリスは夫に「今のフレーズは何です?」と問いかける。妻を楽しませたくなったエルガーは、「何でもないよ。けど、パウエルならこう弾くかもね…」と、その旋律を主題として、友人一人一人をイメージして即興で変奏していった。そして、それらを管弦楽曲へ膨らませたものが、《管弦楽のための独奏主題による変奏曲》、通称《エニグマ(=謎、謎かけ)変奏曲》として世に出された。

本作には二つの「謎かけ」がある。第一の謎は、「14の変奏が誰をイメージして書かれているか」である。これは、ほとんどの変奏の冒頭にそれぞれのイニシャルやニックネームが付されていることもあり、第13変奏以外の13人については既に解明されてしまった。そして第二の謎は、「全曲を通じて別のさらに大きな主題があるけれども、それは演奏されない」というエルガーの発言の謎である。その隠された主題の正体については、これまでたびたび議論されてきたものの、いずれも仮説の域を出ず、未だに謎に包まれている。

楽曲の展開 ―各変奏のモチーフ―

主題 Andante ト短調、4分の4拍子

孤独にうなだれる芸術家のような、弦楽器の重々しい旋律(A)と、木管楽器・ホルンも加わった優しいフレーズ(B)との2つの楽句からなる(譜例)。

譜例

譜例

第1変奏 Listesso tempo “C.A.E.” ト短調、4分の4拍子

妻のアリス。 主題から休みなしに演奏される、 「主題の延長」 となっている。

第2変奏 Allegro “H.D.S-P.” ト短調、8分の3拍子

アマチュアピアニストのヒュー・デイビット・ステュアート=パウエル。彼の演奏を描写した、小気味よい変奏である。

第3変奏 Allegretto “R.B.T.” ト長調、8分の3拍子

アマチュア俳優のリチャード・バクスター・タウンゼンド。低音から高音まで様々な声質で自在に歌いこなす。

第4変奏 Allegro di molto “W.M.B.” ト短調、4分の3拍子

田舎の大地主で学者でもあったウィリアム・ミース・ベイカー。精力的で仕事熱心な彼が、力強くその日の計画を読み上げ、慌てて音楽室から出て行く様子を描写する。

第5変奏 Moderato “R.P.A” ハ短調、8分の12拍子

詩人の息子でピアニストのリチャード・ペンローズ・アーノルド。 彼のユーモアに富んだ性格で、真面目な会話もしばしば笑いに中断される。

第6変奏 Andantino “Ysobel” ハ長調、2分の3拍子

ヴィオラの愛弟子、イザベル・フィットン。 この変奏では終始ヴィオラが活躍する。

第7変奏 Presto “Troyte” ハ長調、 1分の1拍子

建築家で終生の親友でもあったアーサー・トロイト・グリフィス。不器用だがピアノ習得に熱心な彼が、エルガーの指導の下、悪戦苦闘する様子が窺える。

第8変奏 Allegretto “W.N.” ト長調、8分の6拍子

18世紀の古い家に住むおっとりした女性、 ウィニフレッド・ノーベリー。クラリネットが優美に彼女をかたどる。

第9変奏 Adagio “Nimrod” 変ホ長調、4分の3拍子

エルガーの親友かつ助言者で、 楽譜出版社で働いていたアウグスト・イェーガー。ある夕暮れ時、彼がエルガーを鼓舞して口ずさんだ、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』の緩徐楽章が、冒頭でさりげなく暗示される。 

第10変奏 「間奏曲」 Allegretto “Dorabella” ト長調、4分の3拍子

ウィリアム・ベイカー(第4変奏)の義理の姪であるドーラ・ペニー。 木管楽器の16分音符や弦楽器のトリルは彼女の話し方や笑い声を表現している。

第11変奏 Allegro di molto “G.R.S” ト短調、2分の2拍子

オルガニストのジョージ・ロバートソン・シンクレア。彼の愛犬のダンというブルドッグが散歩中にワイ川に落ち、必死に岸まで這い上がったあと、嬉しそうに吠える様子を描く。《南国にて》の第1主題でもダンの「勝利」が描かれ ている。

第12変奏 Andante “B.G.N.” ト短調、4分の4拍子

エルガーの親友でよく共演した、 チェリストのベイジル・G・ネヴィンソン。チェロの哀愁ただよう美しい旋律が印象的である。エルガーは後に彼に触発されて《チェロ協奏曲》を書き上げる。

第13変奏 「ロマンツァ」 Moderato “***” ト長調、4分の3拍子

全変奏で唯一、冒頭のイニシャルが記号になっており、誰をモチーフにしたのかは未だに「謎」のままである。メンデルスゾーンの序曲 《静かな海と楽しい航海》のメロディが引用されていることなどから、当時航海中のレディ・メ アリー・ライゴンの海路平安を祈ったものとする説が有力である。

第14変奏 「終曲」 Allegro Presto “E.D.U.” ト長調、4分の4拍子

アリスに「エデュ」と呼ばれていた、エルガーの自画像である。第1変奏(アリス)と第9変奏(ニムロッド=イェーガー)が顔を覗かせ、主題で描かれた孤独な作曲家は自信に満ち溢れていき、 14にわたる変奏曲は栄光に包まれな がら華やかに幕を閉じる。

終わりに ―遺された謎―

寂しい芸術家が、妻や友人らに囲まれ輝かしい未来へ羽ばたいていく様子は、エルガーの生き様に重なる。彼が周囲の人々への親愛によって書き上げた本作は、実際に、1899年の初演の大成功をもって、彼を一躍時の人へと押し上げた。

本作の「第一の謎」は、エルガーと各変奏の主人公たちとのハイコンテクストな冗談を含み、彼らとの絆を仄めかす。では、未だに解き明かされていない「第二の謎」、すなわち隠された主題の正体は、エルガーと我々聴衆とを結ぶ絆なのではないか。本作に向き合い、その「謎」に魅せられる時、我々は偉大な音楽家の大いなる愛に捉われ、見えないものを求めて天を仰ぐのである。「エニグマ」が「エニグマ」である限り。

(Vc. 阪内佑利華)

参考文献

  1. Keller, James, M., “Variations on an original Thema, Enigma, op. 36” New York Philharmonic Saturday Matinee Concert “Notes on the Program”, February 1, 2020, New York, David Geffen Hall (2023年10月8日閲覧)
  2. Steinberg, Michael, n.d., “Elgar: Enigma Variations” San Francisco Symphony Program Notes, San Francisco (2023年10月8日閲覧)