《アルルの女》第2組曲は、フランスの作曲家ビゼーの劇付随音楽《アルルの女》を元に、彼の親友でパリ国立音楽院作曲学教授のギローによって編曲された組曲である。ビゼーは、1838年、パリにて、声楽教師の父とピアニストの母の間に生まれる。幼い頃から音楽に親しみ、《真珠採り》(1863)や《美しきパースの娘》(1866)で劇音楽作曲家としての地位を確立すると、1875年には代表作の一つ、オペラ《カルメン》が……
エマニュエル・シャブリエ(1841–1894)は、フランスが近代国民国家へと変わりゆく激動の時代に生を享けた。6歳で音楽をはじめると、とりわけピアノ演奏において卓越した才能を示したという。しかし彼は専業の音楽家としての道を選ばず、法学を学び内務省に就職した。一連の政治革命の中で、多くの音楽家が宮廷や教会での職を失っていたためである。音楽への想いを諦められなかったシャブリエは、フォーレやダンディらと……
チェコ共和国は、ヨーロッパの東部に位置し、東西の民族勢力の集合点に位置していた。その地理的状況により、異文化との多様な交流と接触を繰り返した結果、民族固有の音楽に対する感覚が研ぎ澄まされ、音楽文化を絶えず発展させてきた。19世紀末には、絶対音楽に代表作を持つドヴォルザークと標題音楽に代表作を持つスメタナの二人が登場し、今日にチェコ音楽を伝えることとなる。ドヴォルザークは1841年、ボヘミアの農村に……
アーロン・コープランドは、1900年1月14日にニューヨークのブルックリンでユダヤ系移民の両親のもとに生まれました。作曲家を志した彼は、ナディア・ブーランジェの指導を受け、以後3年に渡ってパリで研鑽を積みます。ブーランジェは、後にバーンスタインや、ミニマル・ミュージックの大家で知られるグラスなども指導をしており、20世紀のアメリカ音楽の源流の一つとなる重要な人物です。パリからアメリカに戻った彼は、……
ジョージ・ガーシュウィンは、1898年9月26日にニューヨークのブルックリンでロシア系移民の両親のもとに生まれました。両親が兄アイラに買い与えたピアノを譲り受けた彼は練習を重ね、1917年に高校を卒業したのちは、ブロードウェイの傍に事務所を構える音楽出版社で、試演奏者として働き始めました。間もなく創作活動も開始しミュージカルやショーに向けた音楽を作り始めたことも、その環境を思えば当然のことでしょう……
恩師シューマンの勧めにより交響曲第1番の創作に着手したブラームスは、その完成に実に二十年余りを費やした。シューマンは評論『新しい道』(1853)の中でも、ブラームスを讃えつつ、「合唱・オーケストラ曲といった規模の大きな作品においても力を発揮することを期待したい」と記している。他方、決して遅筆ではないブラームスが、心待ちにされた交響曲第1番の完成にこれほどの時間をかけたのは、やはりベートーヴェンの存……
本作品は概して、ベートーヴェンのウィーンにおける作曲技法修練の集大成と、独自路線開拓の記念碑的作品と言える。初演は1800年4月、当時29歳のベートーヴェン自身の指揮によって執り行われた。彼は本作品を、ハイドンやモーツァルトの作品、自身の《七重奏曲》などを含むプログラムのトリに配して、満を持す形で世に放ったのである。ドイツのボンで生まれた田舎者の青年が、その後作曲家として大成するウィーンに落ち着い……
われわれの一生は、その厳粛な第一音が死により奏される未知の歌への一連の前奏曲でなくてなんであろうか。交響詩《前奏曲》は、リストの管弦楽作品のうち、最も有名かつ重要な作品の一つである。本作品は、冒頭に掲げた文章に始まる標題を持つ。標題とは、文学や絵画といった音楽外の観念や表象であり、これに従った自由な形式の音楽作品を指す標題音楽や、その代表的ジャンルとしての交響詩という用語は、リストによって初めて用……